- 1 名無しさん 2009/05/03(Sun) 00:24
- 忌野清志郎さん 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。
東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、80年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が社会現象を巻き起こし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。
一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。
06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。
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2 名無しさん 2009/05/03(Sun) 00:32
- ソース貼るの忘れてた
http://mainichi.jp/select/today/news/20090503k0000m040102000c.html
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3 巡礼者クァスバル◆x25698LM 2009/05/03(Sun) 09:54
- ・・・『がん』に罹っていた事自体、知りませんでした・・・。
・・・58歳とは・・・早過ぎる・・・。
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4 名無しさん 2009/05/03(Sun) 16:18
- 忌野清志郎さん死す…突然の他界に衝撃広がる
ロック歌手の忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日午前0時51分、がん性リンパ管症のため都内の病院で死去した。58歳だった。06年7月に喉頭(こうとう)がんを公表。闘病生活に入ってから一時復帰したが、08年7月に腰に転移したことが分かり、再び活動を休止していた。最近は世界マラソンに挑戦中の間寛平(59)に応援歌を提供するなどしており、突然の他界に関係者は大きなショックを受けている。
清志郎さんの容体が急変したのは1日。すぐに都内の病院に入院したが、そのまま帰らぬ人となった。都内の自宅では深夜まで関係者らが出入りし家族は遺体のそばで悲しみにくれていた。
08年7月に2度目の活動休止に入って以降も体調は良く、レコーディング作業中の食事もとんかつ定食をたいらげるなど元気だった。それだけにショックは大きく、関係者は「あまりに突然で…。きょうは言葉にならない」と涙を流すばかりだった。
06年7月に医師に喉頭がんを宣告されてから3年近くの闘病生活。苦しかったはずだが「これも人生経験。この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念したい」と言い、前向きにがんと闘ってきた。
初期の喉頭がんだったこともあり、声帯を痛める可能性がある切開手術をせずに、放射線治療を含めた治療法を選択。歌い続けることにこだわって、病魔と闘ってきた。がんが腰に転移したときも「妙に前向きになるのはなぜだろう。心配はしないでくれ。このくらいのことは覚悟してた」と周囲に話していた。
08年2月に東京・日本武道館で行ったライブ「忌野清志郎 完全復活祭」では、最後に2人の子供(当時19、16歳)がステージに上がり、目を潤ませた。ファンへは「応援してくれたすべての人に感謝です。勇気を与えてくれてありがとう!」と何度も感謝した。最後のライブは腰へのがん転移が分かる直前の同年7月6日に東京・高田馬場で行ったファンクラブライブだった。
どぎついメークととっぴなトーク。大胆かつ繊細な作風で若者の心をとらえた。それらは時にはひわいな言葉でもあり、当初から放送禁止を覚悟していた。
常に弱者へのいたわりも忘れなかった。上司に給料を上げてもらえず「やる気がしねえ…」と仕事をサボる様子を歌った「ボスしけてるぜ」などがその代表。社会の辛酸をなめる人へのサポートソングだった。反原発などメッセージを込めた曲もあった。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」と叫ぶように歌い、対立したレコード会社を「東の芝の〜」とおちょくったりもした。
晩年は東京から鹿児島まで自転車で走破するなど、いつも世間に刺激を与えてきた。ラストになってしまった昨年11月のステージでも「愛し合ってるか〜い」と何度も絶叫。客席に向かって最後に発した言葉は、決めぜりふの「ご機嫌だぜぇ〜」だった。
忌野 清志郎(いまわの・きよしろう) 1951年(昭26)4月2日生まれ、東京都出身。都立日野高校在学中の66年に同級生の小林和生らとバンドを結成し、70年、RCサクセションとして「宝くじは買わない」でデビュー。82年、坂本龍一と組んだ資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」がヒット。91年にグループとしての活動休止。俳優としても活動し、ドラマ「ボクの就職」(94年、TBS)、「野ブタ。をプロデュース」(05年、日本テレビ)や映画「妖怪大戦争」(05年)などに出演。
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5 名無しさん 2009/05/03(Sun) 18:31
- 泉谷しげる、盟友・清志郎さんの訃報に悲しき叫び「ふざけんなこのヤロー」
5月3日16時45分配信 オリコン
俳優でシンガー・ソングライターの泉谷しげるが3日、都内で動画サイト『泉谷しげるのコラコラ放送局』の開局を記念した記者会見に出席。2日にがん性リンパ管症のため58歳で死去した盟友・忌野清志郎さんについて自ら切り出した泉谷は「恩返ししてないのに先に逝くんじゃねー!」と事実を受け止められない心情を露にしつつ「ふざけんなこのヤローですね。俺としては好敵手を失いたくない」と沈痛な思いをのぞかせた。
“ロックの神様”逝く…忌野清志郎さんが58歳で死去
忌野さんの突然の訃報に約40年の付き合いという泉谷も動揺を隠せない。「あいつの死は受け止められない。似合わないでしょ? 僕の中では永遠だし、死なせません」と現実に背を向けた泉谷は「あいつがいて俺が出れた、というぐらいに世話になった。年下だけど、尊敬してて、師匠のようだった」と忌野さんを“天才”と評した。
また、通夜や告別式には「行かない」とした泉谷は、「後日、会いに行きます。お線香はあげない。俺としては好敵手を失いたくない。勝てないんだけどさ、でも強い奴にぶつかっていくのが元気の源だから、責任とってもらわないと。棺桶から出してやりますよ」とぶつけようのない悲しい怒りを口にした。
泉谷は、時折神妙な面持ちをみせながら「(吉田)拓郎も含めて、具合悪くてよ。自己管理しろとは言わないけど、なに具合悪くなってんだバカヤローと言いたいよ」と声を荒げる場面も。だが「やっぱアイツらがいなくなると寂しいし、ガッカリする」と本音も垣間見せ「(忌野さんからは)4年くらい前から連絡が来なくなった。留守電入れても返さなくなった。裏で(病気を)聞いたけど、気遣ったのかなって思う。だって、俺に言うとバーッと言っちゃうからな」と、どこか寂しげな表情をうかがわせていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090503-00000001-oric-ent
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6 名無しさん 2009/05/14(Thu) 17:48
- 清志郎さんと天国で歌って がんと闘った川津さん 日田の公園 ロック仲間が歌碑
5月14日15時7分配信 西日本新聞
大分県日田市石井にある石井小学校の裏手の公園に4月末、口腔底(こうくうてい)がんのため3月に39歳の若さで亡くなった同校出身のロックミュージシャン川津誠司さんの歌碑が建った。がんと闘い、のどの手術を拒んで歌い続けた壮絶な人生。2日にがんで逝ったミュージシャン忌野清志郎さんを敬愛し、忌野さんを彷彿(ほうふつ)とさせる生きざまに「天国で忌野さんと一緒に歌ってほしい」と悼む声が広がっている。
高校を中退してバンド活動を始めた川津さんは、福岡、東京で約20年間過ごし、プロのボーカリストを目指した。2007年4月、夢破れて37歳で帰郷。後輩たちとアマチュアバンド「THE HEATERS」を結成した。
がんが見つかったのは、帰郷から約7カ月後。木材関係の会社でアルバイトをしながら音楽活動を楽しみ始めたころ、口内に違和感を覚えた。医師から「手術をすれば声が出なくなる」と告げられた。ボーカリストにとって絶望的な言葉。「死ぬまで歌いたい」。川津さんは両親の説得にも首を縦に振らず、手術しない道を選んだ。
放射線治療を終えて退院すると、毎回、「これが最後」の覚悟でライブを重ねた。持ち味のしゃがれた声も健在で「今が一番調子がいい。どこでもいいから歌いたい」と話していたという。交際相手の椋本和美さん(39)は「体調が悪くても弱音は絶対に吐かなかった」と振り返る。
08年10月に福岡県うきは市でライブをした日、同じようにがんで闘病中だった忌野さんと電話で互いの病気のことなど30分ほど語り合った。電話の後、川津さんは「励ましてもらったんだけど、話したことが全く思い出せない」と興奮した様子だったという。
がんは静かに体をむしばんだ。08年末に再入院。年明けには会話さえ困難になった。バンド仲間が闘病生活を応援するライブを日田市内で企画したが、川津さんは3月17日に息を引き取った。ライブの5日前だった。
追悼イベントとなったライブには約200人が集まり、樋口隆彦さん(41)ら日田市在住のバンド仲間がその収益で歌碑を建てた。
歌碑には、手術を拒んだ病床で書いた「月のうた」が刻まれた。「…1人じゃねぇと/言ってくれた仲間の言葉が/この俺(おれ)を歌わせてくれる/どんな時だって声をくれる/闇の向こうの月のうたを…」
父親の誠さん(65)は「(息子は)幸せな人生だったと思う。手術をしなかったことも後悔していません」と歌碑の前で涙ぐんだ。石井小から元気な声が聞こえる。友だちがいることの喜びを歌った言葉は、きっと子どもたちにも届くはずだ
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7 名無しさん 2009/07/08(Wed) 11:19
- あ
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8 名無しさん 2009/09/25(Fri) 06:42
あ
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